その日の晩餐にはスザンナの婚約者であるリカルドも招かれて、大変にぎやかな集いになった。
リカルドはもう何の遠慮もなくスザンナの横に席を取り、果物を渡したりゴブレットを交換したりしていた。 テーブルの下でそっと脚をからませたりもしているらしい。 クリスティーナに遠慮してか、派手な振る舞いは押さえていたが、眼の輝きだけで幸福なのがわかった。
もう一組の婚約者たちは、大変静かに食べていた。 昨日までは、クリスティーナに最小限の返事しかもらえなくても陽気に話しかけていたアルマンドまでが口を閉ざしてしまったので、明るい食卓がそこだけ別世界のようになっている。 最初はちらちら見ているだけだったジュゼッペは、次第に不安になってきて、とうとう身を乗り出して話しかけた。
「どうした。 家で何かあったかね? えらくおとなしいようだが」
アルマンドは、霧のヴェールがかかったような眼を未来の舅に向けた。 そして、ぽつりと呟いた。
「やっとわかったんです。 恋がどういうものなのか」
クリスティーナのナイフがすべり、皿から肉がだらりとぶら下がった。 たちまち彼女は真っ赤になって、あわててあぶり肉を引き寄せた。
その晩、召使が下がった後、クリスティーナはベッドの上で脚を動かして訓練を始めた。
結婚すると決まってから、毎日一人でやっていることだった。 なんとか自力で祭壇に歩いていきたい――それがクリスティーナの小さな夢だった。
だがその運動も、今夜は身が入らなかった。 がんばったって何になるだろう。 アウグストは誰かに恋している。 遠まわしに言ってはいるが、あの思いがけない言葉はたしかにそういう意味だった。
初めて彼に会った晩、クリスティーナはたった一人で《神の恩寵》を待っていた。 トスカーナの地に、手で触れるだけで病や傷を治せる超能力者がいると聞き、父に頼んで呼んできてもらったのだ。
そのぐらい、クリスティーナは追いつめられていた。 来年には自分は20歳、妹も適齢期ぎりぎりの18歳になる。 しかも妹には言い交わした恋人がいる。 結婚させてやりたいのに、父はどうしても許さない。
奇跡が起きれば自分にもちゃんとした婿を取れる。 そう心から願って、クリスティーナは待っていた。 だがやってきたのは、別の奇跡だった。 気持ちのいい声と、やさしい仕草と、若いのに相当な教養を身につけた、物静かな青年――と、そのときは完全にそう思っていた。
だから彼が友達に名を呼ばれたとき、顔を殴られたようになった。 アルマンド…… あの有名な遊び好きが、まさかこの人……!
アルマンド・レジオーニは、途方もなく美しいだけでなく、体を動かすことならなんでもうまいと評判だった。 裸馬を乗りこなせるし、レスリングも得意だ。 活発な人間は、体の弱い者に理解がないことが多い。 クリスティーナの初恋は、始まったとたんに終わってしまった。
しかも、《神の恩寵》はとうとう姿を現さなかった。 どうも詐欺師で、旅費だけもらって逃げてしまったらしい。 がっかりした侘しい気持ちで、彼女は下男に抱かれてゴンドラを降りたのだった。
それでも、いったん好きになった心は、クリスティーナの意思のままに動いてくれなくなった。 会えただけでなく、申し込みまでされるという二重の奇跡に、その心が逆らえるはずはない。 後悔するとわかっていても、クリスティーナは彼を夫にと望んでしまった。
世間には政略結婚はいくらもある、とクリスティーナは無理やり自分に言い聞かせ、ゆっくり脚を伸ばした。 それだけの動きでも堅くなった腱には痛みが走る。 こんなことをしたって、と思いかけたとき、不意に窓の外に人影が立って、月の冷たい光を遮った。
テラスに、誰かが上がってきたのだった。 クリスティーナは息を殺して、横の小机に置いた燭台を探った。 近くに来たら、これで殴ってやる……
人影は、かすかな音をさせて窓を開き、風のようにふわっと入ってきた。 だがベッドには近寄らず、窓を素早く閉めて冷気を遮断し、そのままもたれて寄りかかった。
ささやきが伝わってきた。
「覚えていますか? 祭りの始まる前の日に、下の運河で会った者です。 もう誰だかわかってしまっていると思いますが」
クリスティーナの顎がままならなくなった。 舌がもつれてうまく動かせない。 それでも返事がしたくて、クリスティーナは必死に努力した。
「……ええ、覚えています」
「ずっとあなたを探していました。 僕の力が及ぶものなら、助けて幸せにしてあげたかった。 でもあなたは、こんな大家のお嬢さんだったんですね」
「あの日は……秘密で人と会う約束だったんです」
「恋人ですか?」
「いいえ!」
無意識に声が大きくなって、クリスティーナは身をちぢめた。
「脚を……この脚を奇跡で直すと言った人がいて」
影は静かに息をついた。
「神はひとつ取り上げると必ず代わりのものを下さるといいます。 あなたには深い心がある。 ただの美人よりずっと胸に残ります」
「でも私は」
闇だからこそ、クリスティーナは本心を言うことができた。 頬の涙を手で払い落として、彼女は激しく囁き返した。
「あなたに少しでもふさわしくなりたいんです。 私の心は深くなんかない。 悔しさと嫉妬で一杯です。 妹のように生まれたかった。 あの子みたいに愛されたかった」
「愛されるより、愛するほうがいいですよ。 片思いは寂しいけど」
影はしみじみと言った。
「僕は半年間、恋人にしてくれと追いかけられました。 でも彼女が愛したのは、たぶん僕の見かけだけ。 僕が何を考え、何を望むかなんて、まるで興味がないようだった。 私がこれだけ愛しているんだから、あなたも同じだけ返してくれと、まるで品物を取引するようでした。
ずっと女性が怖かった。 でも初めて、あなたのような人に会いました。 あなたは僕に望まない。 押し付けないから、逆にあげたくなる。 でも僕も押し付けません。 選ぶのはあなただ。 本当に、本気で僕を、夫にしたいですか? 答えてください、クリスティーナ」
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